運命学の視点から「人間」を考える〜四柱推命と易の可能性〜

占いを超えたところにある東洋運命学の深さを実感したい占い師のブログ

命式の偏りはかけがえのない個性

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これは、四柱推命を学んできた中で私が最も救われた言葉。

 

この言葉があったから、四柱推命を今も学び続けていられる気がしています。

 

色々なほとんどの四柱推命の本には、命式の五行のバランスが良いのが何よりも良いことであり、極端に五行が偏っていたり忌とされる通変があるとその人はそれだけで不幸になるかのように書かれています。

 

良いか悪いか、ということのみが基準の四柱推命は本当に多い。

 

たしかに、命式でバランス良く五行の力量がありなおかつ上手く周流ができている人は人生が何事もスムーズに運びやすいです。そっちの方が何かにつけて生きやすいのは確か。これはまぎれもない事実。

 

命式が偏っている人は、その命にもよるけれどやっぱり普通じゃないところはあるのでどうしても生き方が不器用になったり、いわゆる常識から少し外れたところがあったりします。それが社会生活の中では程度は違えど生き難さになったりすることも。

 

でもそれは、もう生かすしかないものなんですね。

 

生き難いと嘆くよりも、逆手にとってそれを個性として磨いていく。

磨いていくことで他の人にはできないようなことができたり、唯一無二の存在になることもできる。偏っているなら、それをバランス良く正そうとしたちころで苦しさがあるのなら、もうそれを嘆くのではなくその人の生きやすい場所で個性を伸ばしていくということ。

 

普通でなくてもいい、その人が咲ける場所は絶対にある。

 

 

私が20代の時にはじめて四柱推命を学びはじめてから最初にぶつかった壁が、生まれながらにその人は幸せか不幸せかが大まかに決まってしまうような考え方が根底にある四柱推命がほとんどだったということ。

 

もしそうなら、もう運命学なんて学ばないほうが幸せだと私は思ってしまう。

 

自分の人生は自分で選んでいくものだからこそ、楽しい。

 

未来予測をしながら、自分自身の手で彩っていけるからこそ運命学の存在意義があるのではないかなと思う。

 

 

人生はどんな師に出会うかで大きく変わるものだと聞いたことがあるけれど、本当にそうだと心から思うんですよね。私の師も普通ではない、けれどゆるぎない信念と分かりやすくはないないけれど深い愛がある人です。

 

四柱推命で誰かの役に立てた時、生きていてよかったと思う。

 

最終的に私はどこにたどり着くのかはまったく分からないけれど、とりあえず面白いことを学び追求していくことが今の喜びです。