運命学の視点から「人間」を考える〜四柱推命と易の可能性〜

占いを超えたところにある東洋運命学の深さを実感したい占い師のブログ

それは「絶対」ではなく「手段」であるということ

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四柱推命の命式が示すもののひとつに、

起こる事象に対してどのように反応するか

ということがあります。


今目の前で起こったことに対しての対応の仕方、理解の仕方、感情の処理の仕方などは本当に千差万別で、それは命式の数だけあるとも言えるでしょう。性格傾向やクセのようなものは、そうやって長年の反応の積み重ねによってできていく部分は多いかもしれません。

反応の傾向性は元々生まれ持ったものがあるのなら、もうそれは変えることができず例えばネガティブは一生ネガティブということになるのでしょうか。否、それって実は自分の意志で変えることもできるはずなのです。


四柱推命などの占い、それはもうその人の人生や性格などがすべて決まっていて抗えないもののように言う占い師さんもいます。あなたはこういう人だからこうするしかない、というような。

でももしそうだとしたら、生きることって全く面白くない!と私は思ってしまします。

たしかに、生まれ持った自分の命式の個性はそれに自然なかたちで生かしていくことがスムーズに人生が流れていくというのは事実です。生まれ持った個性と真逆のことをしていくと、その道は決して楽ではないことは確か。

とはいえ、その真逆さえ敢えて選択する自由も人間にはあるのですよね。


宿命という抗い難い部分は誰しもあるけれど、人には変えられる部分の方が多いはずで。

何か起こった時に、一瞬客観的に自分を見る「間」のようなものがあれば反応自体を変えていけるのではと思います。


「いつも私はこういうことが起こった時、必ず向き合わずに逃げてしまう」

と感じていてそれを変えたいなら、次にそれが起こった時に「よしきた!」と準備しておいてみる。

分かりづらいかもしれないけれど、自分のその反応を前もって知っておくということかもしれません。


四柱推命の存在意義はそこかなと私は思うのです。

自分を良い方向に変えていくための手段。

あくまでも手段でしかなく、何か答えを与えてくれるものでも神の啓示のようなものでもない。


主体はあくまでも自分自身でしかないということ。

そんなことを、四柱推命とともに歩む日々で実感しています。


元々生きる意味というものが存在しているのではなく、

どのように自分で創造していくのか。


そんな厳しさと自由度が人生にはあるのかもしれません。