癸亥月はこの5年間の総まとめ
2018年11月(から12月の節入りまで)は月の干支でいえば癸亥でした。
この癸亥は六十干支の一番最後の干支なので、次に同じ干支が来るのは5年後です。なので、5年前の11月にも同じ癸亥月がきていたということになりますね。
癸亥の次の干支は、六十干支のいちばん最初である甲子となり、新たな5年間のはじまりの月ということにもなります。
なので、癸亥月から甲子月に変わるときは実は大きな変化の時になります。
11月はこれまでの5年間の総決算のような時期でもあったので、大きな心の変化や現実面で何か終わりを迎えたり清算のような時期だった人も多いのではないでしょうか。
人が大きな変化する時や成長する時というのは、なぜか体調がすごく悪くなったりすることが多いそうです。やはり変化には痛みを伴うというやつでしょうか^^:自分の心のステージが大きく変わることに伴って、身体も一緒に変化するからだそうですが。
今年でいえば、私は9月から10月くらいに体調の変化だけでなく、家の色んな部分の故障だったり気分のアップダウンがいつもよりあったりとなんだかソワソワしてばかりの時期でした。
これが変化に伴ったものだったかどうかは分からないけれど、その後思いがけない出会いがあったり、新たな場所での鑑定のお仕事を始めることができたりと、大きく変わったところはあったかなと思います。
12月に次の5年間のはじまりというのもちょっと不思議な感じですが、少し意識をしながらというか、どのように今後変化していきたいかを考えてみようと思っています★
2019年の己亥年は、私にとってはどんどんアウトプットしていく時期なのでそこも気にしつつ♪
生まれたときに与えられた仕事【calling】とは?
人は生まれながらに、この世に果たしにきたある種の【使命】のようなものがあるそうです。
使命というと、なんだか社会的に大活躍するような何か大きなことを成し遂げることかなと思いがちですが、そういうことではありません。
もちろんその使命が社会的な活動である人もいれば、人によってはそれが結婚して子供を育てることだったり、家業を継ぐということであったり本当にそれは様々なんですね。
「自分がやりたいこと」とはまた全く別のところにそれがあることも多いようです。
多くは、人生の中盤以降に自分の意思とはまったく違ったところから「呼ばれる」ものであり、そしてそれに答えられるかどうかはその人の資質や意思によるものだそうです。
それを、
calling(コーリング)
といいます。
求められてやる仕事のようなものかもしれませんね。
それは必ず人の役に立ち誰かのためになることだけれど、自分の意思ではじめたこととは限らないし時には思いもよらないようなことかもしれません。
命式にはそのヒントがいくつも隠されていて、
それが命式の風景にそのままあらわれていることもあれば、色んな角度から解読していくことである一点の答えに行き着くこともあります。
callingに気づいてそれに取り組むことができれば、最初は一見それで食べていくことが難しそうに見えてもなぜだかちゃんとそれが仕事になって食べていくことができるものなんだそうです。
きっと「好きで仕方のないこと」や「なぜだか昔から続けていること」を一生懸命ひたすら取り組んでいくことで、最終的にその使命にたどり着くのではないかなと最近は思っています。
それはけっこうな時間をかけないと分からないことかもしれないし、今は見えていないけれどすぐ近くにあるものなのかもしれないですね。
その『裏側にあるもの』をみるということ
命式をみるとき、その人のこの命式には『何があるだろう?』という視点でみてしまいがちだと思います。
この命式には「財」が多い、とかこの人は「官殺」を持っている人だ、というように。
東洋思想の基本的な部分、すべては陰陽であるというところを鑑定するときにもけっこう見逃してしまったりするんですよね。実は、その人の本質的な部分や隠れた自己のようなものは『裏側』に存在していたりするのだけれど。
例えば、命式に「財」がまったくない人って、お金が入りにくいとか貧乏になるとかではなく「財」に関して底が抜けているといえるそうで、お金が入らないときは全く入らないけれどある時期が来て急に莫大な財が自分に入ってきたりする。中途半端に財が少しだけある人よりも、お金が入るということがある。もちろん「財」はお金だけを意味しているわけではないので、今のはたとえ話なんですが。
四柱推命は4つの天干と4つの地支によって成り立っていますが、その八字のなかには存在しないけれど実は暗に存在しているということもあります。
例えば、壬だらけの命式には実は裏側には丁が存在しているというような。これは、壬の干合の相手が丁でありその結びつきはとても強いもので対極同士のものだから。壬が丁を呼ぶ、というようなイメージかなと解釈しています。
十二支でも同じように、申、酉、亥、子の地支がある命式だとすれば、この命式には「戌」が暗に存在している命式ということができますね。それは、十二支の順番で考えると分かりますよね。酉の次は戌、戌の次は亥なのであおの間に入るということです。なので、この地支のならびをもつ人は「申 酉 戌」の金の五行がとても強い命式と読むこともできるんですね。
この『裏側にあるもの』を読み取ることができるようになったら、鑑定を一面的なものとして目に見える部分だけ読むのではなく、命式から「感じ取れるもの」を深く読んで球面的な全体をみる鑑定ができるようになるのだと思います。
白か黒か、
良いか悪いか、
得か損か、
のような見方をする占い師さんはけっこう多いように感じます。
でも、人間というのは存在自体が実は曖昧なものであり、こうであると決めつけることができないはずなんですよね。一つのこの世に生まれた命があり、その生まれ持った命式に作用する後天運は常に変化していくし、それに伴い自分自身の心も体も少しづつ変化していくのだから。
そのとき、その人がどういう選択をしたか?
という不確定な要素もそこには加わってきます。
鑑定をするということは、クライアントの人生をただ眺めるのではなく、ちゃんとその人の人生を「感じる」ものなのかもしれません。
『禅』のシンプルな考え方~いらないものを捨てていく~
『禅』とは禅宗や座禅の略であり、修行としてはとにかく坐る(坐禅する)ことで研鑽し、人間が生まれながらに持つ「本来の面目」に立ちかえることを目的としています。
でもこの『禅』を少しだけ勉強してみるとわかるのは、もはや「宗教」という枠を超えているような気がするんです。
アップルの創始者スティーブ・ジョブズなど、海外でも禅は広く愛されています。
なぜ、「禅」は国を超えて時代を超えて愛されるのでしょうか?
『禅』の考え方
キリスト教やイスラム教などの一神教は「神」という絶対神がいて、神がすべてを創ったのだから敵であっても愛しなさいという考え方です。
しかし、
仏教にはそもそも絶対的な「神」はおらず、宇宙に存在するすべてもののは相対的に存在する
という考え方に基づいています。
相対的というのは例えば、気温20度の部屋があったとして、そこよりも寒いところから入ってくるとその部屋は「暖かい」けれど、そこよりも暑い30度くらいのところから入ってくるとその部屋は「寒い」ということになる。比較するものによってその部屋がどういうものかが変わる。
そういうものが「相対的」ということです。
ひとつの見方がある、しかしそれがすべてではない。
というのが「禅」の考え方で、禅問答にも通じるところがありますね。
宗教は「自分の信じるものが絶対だ」と思い込んだ時に、相手を排除しようとして戦争が起こります。
でも「禅」にはそれがなく、禅僧ですら「禅がすべてではない」とおっしゃる方が多いそうです。ルクセンブルクの大司教でさえ「これからは、キリスト教だとかイスラム教だとか仏教だとか、そんなことは重要ではない。
大切なのは、宗教心に基づいてそれがどれだけ社会のために、人の為になっているのかということである」と考えている。
もう、枠に囚われて生きる時代は終わったのだなと思います。
『禅』に学ぶ心が自由になる考え方
仏教の流れの中にある「禅」ですが、仏教といっても宗派によって少し考え方は異なっているようです。
「死後」の極楽浄土を求めるものもあれば、禅宗のように「今ここに生きている自分」は何かと坐禅することによって問い続けるものもあります。
宗教というイメージだけでいうと「死後の世界」に何かを求めるイメージがありますが、「禅」は生きている人間のためにあるものといわれています。
そして「禅」のスゴイところは、教えを忠実に実行しながらも「禅」自体に「とらわれない」というところ。
よく「自分探し」や「自己実現」といわれたり「自分」を持っている人が素晴らしいと考えられがちだけれど、禅の道は「自分」というものはそもそもなく、坐禅によってその自己すら一度壊して捨てて実体のない「自分」を見つけることだといわれます。
難しくてなかなか理解はし難いですが、坐禅によってこれまで生きてきた中で身にまとってきたいらないものを取り除き、より心豊かに生きていこうというという考え方なのです。
神秘主義に囚われることなく、死後の世界も語らず、ただ坐っていらないものは捨てていく。
そんなシンプルな「とらわれない」考え方は宗教を超えて現代社会に寄り添っていると思うのです。
生きていると、どうしても「自分のやり方」なんかにこだわって、大人になるにつれ受け容れるという心を失っているようなそんな気持ちに私自身なることがあります。
育児をしていると特にそういうことが多く、本来の意味や目的を見失ってまさに目の前のことや自分のことしか見えなくなってしまうことが。
心が不安になると、何かを取り入れようとしたり持っているものを増やそうとするけれど、実は禅の考え方からすると「いらないものを捨てていく作業」こそが必要なのかもしれない。
すべてはかたちを変えていく
陰陽五行の五行、
木、火、土、金、水にはこの世の森羅万象さまざまなものにそれぞれが対応している。
方位、季節、人体、味覚、食物、行動、などこの世界のサイクルそのものもどうやら五行対応しているようだ。
これってすごくない?
陰陽五行=宇宙
ということになりますよね。
四柱推命を学んでいて、命式のたった八字が教えてくれる膨大な情報を読み解くということが本当に難しいことだと実感する。それとともに無限の広がりというか、人間ひとりのこの可能性の無限さ?にただただ驚くばかりなのです。
果たして私は、死ぬまでのこの数十年の人生で八字の謎を解くことができるのだろうか?
まだ誰も見つけていない新たな発見がひとつでもできるだろうか?
私の先生が以前、双子の命式の見方を授業で説明されていて、そのあまりにも斬新で説得力のある見方にイスから転がり落ちそうになった。四柱推命でまったく同じ命式の2人の人間が全く違う運命を辿っているその理由。それは、きっと今まで四柱推命に取り組んできた偉大なる先輩方も分からなかった領域だと思う。
先生のやっていることこそが、本当の「研究」なのだと思う。
四柱推命は、古くより伝えられてきた理論だけでなく、どれだけそれが実状と合っているかということが何より重要だ。古くからの理論と実状が合っていないのなら、今ここにある実状を優先すべきで四柱推命はそれによってアップデートされていくべきだろう。
そうやって、変わらないことと新しいことを織り交ぜながら新しい時代の四柱推命をつくりあげていくのがきっと本当だ。
この世には、変化しないものがひとつだけある。
それは、
「この世に変化しないものは何一つない」
ということだ。
これは東洋の思想そのもののあり方。
すべては大きなサイクルのなかにあって、常にかたちを変えている。
相性ほど難しいものはない~四柱推命でみる男女の相性~
私と彼(彼氏や旦那さま)の相性は良いでしょうか?
という質問は、四柱推命で鑑定するときにとてもよく聞かれる質問です。
彼との結婚を考えている、夫婦関係が上手くいかない、付き合い始めたばかりで相手のことがまだ分からない、など人それぞれ相性を知りたい理由があるわけですが、相性ほど複雑ではっきりと答えが出しづらいものはないのではないかと思います。
なぜか。
それは「相性が良い」というのが本人にとってどういった意味を持つかがあまりにも様々だから。
例えば・・・
①一緒にいると安心感を得て家庭が上手く関係
②一緒にいると社会的に発展していける関係
この二つは正反対であり、
①の視点で相性が良いとすれば②の視点からみると相性が悪いということになることもあるんです。
①と②の要素を両方満たすような相手というのはほとんどどいっていいほど存在しません。
結婚相手にするなら①の条件を満たす相手がいいと思う人が多いかもしれないけれど、それは絶対そうとも限らないですよね。
自分がどうありたいか、相手に何を求めるのか、二人でどんな未来を目指したいか、などを詳しくヒアリングした上で2人の相性をみるのであれば、四柱推命でみる相性はその人の人生に役に立つでしょう。
もうひとつ、四柱推命で相性をみるときに2人のご縁の深さという視点があります。
命式の干支同士の関係性をみて、生まれながらにとても深いご縁がある人というのはやはり存在します。これは男女関係だけでなく、家族や友人関係においてもよくあらわれるんですね。ご縁が深い人というのは、やはり自然に長いお付き合いになったり出会ってすぐに惹かれ合ったりということにはなりやすいです。
私自身のことでいえば、昔からの幼馴染や自分の子供はやっぱりご縁がとても深い関係にあります。
そして、何より重要なこと。
それは、相性はある程度、自分たちで創っていくものであるということ。
いわゆる相性が良さそうな相手でも、その関係に依存したり甘えばかりが生じるとその関係はすぐに壊れてしまいます。そして、相性がそこまで良さそうでないとしても、とことんその人に本気で向き合っていくことができれば悪い相手でもなくなっていくのですよね。
人生は自分で創造していくものですが、人との相性も実は自分自身の手で作り上げていくものです。
本当にこのことは、色んな人の人生を四柱推命を通してみている中で強く感じたことです。
人と人との関係は、いかようにも変わる。
自分次第で。
だったら「相性」ってなに??ってことになってきますよね(笑)
だから「相性は難しい」んです!
子供を育てるということ、親の本当の役割とは
親子関係というのは本当に様々で、正解不正解は本当はないのかもしれない。
でも、親として子供に対して絶対にしておかなければならないことというのはある。
それを分かっていながら放棄するならば、そのツケは必ずいつか払わなければならなくなるんだなあと。それもまたその人の学びなのだろうけれど、その学びの存在にすらなかなか気づかないままそのまま死んでいく人もいる。我が身に起こる不幸を嘆きながら。
因果の法則は親子関係だけではなく、すべてのことにきっといえることだろう。
なぜ自分に今こんなことが起こるのだろうと、これまでの自分の行動を振り返って見ることは大切なことなのかもしれない。
youtubeの動画を観て涙が止まらなかったのははじめてだ。